体験談

水野真澄さん「アジア起業の歩き方」 第四章 コンサルティング事業会社の設立

水野真澄さん「アジア起業の歩き方」 第四章 コンサルティング事業会社の設立

1.現地法人主管者の交代

2005年4月に丸紅香港の社長が交代した。

同時に、僕の駐在も9年目となり、通常の駐在期間(5年)を大きく超えていた。

否が応でも進退を決めざるを得ない状況が来ることが想像され、精神的なストレスが増していった。

更に、主管者も変われば組織の雰囲気も変わる。

主管者交代にはよくある話だが、現状路線(前主管者の路線)の否定から入る傾向が有ったため、それまで自由にやってきた僕の活動も制限された。

いろんな意味でやり難さが増した。

その年の8月には、喉に違和感を覚え、どうしたのかなと思っていたら、見る見るうちにひどくなり、それから喉が腫れ上がってしまった。

数件の医者に見せたが、「喉自体は問題ない。ストレスによくある状況で、治療法は無いのでリラックスするのみ」と診察された。

喉の腫れは半年経過後に若干良くなったものの、その後、数年間は、痛みと腫れが継続した。

 

2003年から電気を消して眠れなくなり、2005年には喉の腫れ。2006年頃からは、部屋のドアを閉めて寝られなくなった。出張中のホテルで、閉じ込められる夢を見て、うめきながらドアの外に這い出た事もある。

周りからは、やりたい事を自由にやっている様に見られていたし、僕自身もそう振舞っていたが、その実、ストレスは確実に体にダメージを与え出した。

メンタルの怖さを認識したのはこの頃である。

 

この様な体調不調を抱えている時に、僕の進退に付いて話が進んでいた。

新主管者が、僕の所属部である経理部と、翌春(2006年4月)帰任の方向で、話を進めていたのである。

勿論、常識的に見れば、通常5年の駐在地に、倍近く駐在しているのは異例の事である。これ以上長期化すると僕のキャリアに悪影響を与えるかもしれない。

それを考えての親心という面も有ろう。

ただ、経理部がコンサルティング事業を引き取る事は考えられないので、僕の帰任と共に、事業は自動解消となるのはほぼ確実であった。

それでいいのか、という強い迷いがあった。

 

本社にコンサルティングを行う組織が無い以上、僕に与えられた選択肢は、「経理部に帰任する事」、「丸紅を一旦退職して丸紅香港の現地社員になる事」、「独立起業する事」の何れかである。

経理部に帰任すれば、クライアントや部下を裏切る結果になる。

現地法人採用となれば、収入が激減するため生活が行き詰まるし、ポジション安定の保証はない。

独立起業はリスクが伴う。

その堂々巡りで結果が出ない。

結論が出ず思い悩んでいた時に、本社の執行役員・経理部長が、僕の人事で香港出張に来てくれる事になった。

2005年9月の事で、香港現法社長の取り計らいでもある。

1泊だけの短い滞在であったが、僕の希望を聞いてくれ、「経理部に帰ってくるのであれば、帰任する課は希望を叶える。香港のコンサルティング契約を引き取る訳にはいかないが、香港・広州・深圳の社員が対応するのであれば、業務時間中に彼らに助言する事は認めよう」と約束してくれた。

僕の離脱で、現地のコンサルティング業務は、新規契約の獲得はできなくなり、先細っていく事が予想されるが、少なくとも既存の顧問先に迷惑をかける事態は回避できる。その意味では有難い言葉であった。

また、僕の所属部である経理部としては、最大限の配慮をしてくれたわけなので、これには素直に感謝した。

一方、その時は、7名程度のコンサルティング社員が香港、広州、深圳にいた。

彼らの事を思うと、僕だけ安全な選択をする事に後ろめたさを感じた。

そして、僕が本当にやりたい事は何なのか。経理部に帰任する事で、それが出来なくなるのではないか、という迷いも有った。

方向性が決まり、一旦、ほっとはしたものの、本当にそれでいいかと、思い悩む日々が続いたのである。

2.コンサルティング現法設立

2006年の経理部帰任という、大まかな方向が決まったものの、これでいいのかと思い続ける日々が2ヶ月続いた。

この事態が、2005年11月に動いた。

丸紅本社の金融物流部門が、コンサルティング子会社の設立を検討してくれる事になったのである。

事の発端は、日本出張時に、仲の良い同期と酒を飲み、悩みを話した事に遡る。

それに対して彼は、「コンサルティング会社の設立であれば、部門の承認が取れると思う。ちょっと部門内で働きかけてみる」と言ってくれた。

 

当時、丸紅の組織は、大きい順に、部門⇒本部⇒部⇒課という形になっていた。

金融物流部門は、管理部門の中で、準営業行為(収益獲得行為)を行っている、ディーリング、証券、物流、保険といった部が合併されてできたものだが、金融と物流という、共通性が低い部課が、無理やり統合された感が有り、まとまりに欠ける。これに、コンサルティング機能を足せば、組織として共通項が増え、まとまりが出るはずだというのが、同期の意見であった。

彼の意見に、なるほどと思いながら、思いもかけない展開に喜んだ。

 

彼は迅速に話を進めてくれ、翌週には部門長席の合意が取れた。

とんとん拍子に話は進み、2006年1月には稟議が提出され承認を受けた。

稟議決裁直後に、部門長が交代となった事に、一縷の不安が生じたが、何はともあれ、念願のコンサルティング会社が香港と上海に設立される事となった。

双方の会社の代表取締役社長(董事長・総経理)は僕である。

 

丸紅香港を離れ、営業部出資の会社を上海に作った事で、念願の上海展開も可能となった。丸紅香港の社員であれば、社内の地域所管(縄張り)が有るため、上海には手が出せなかったため、2001年から、イライラしていたものである。

 

稟議申請前に、僕も出資したいと申し出たが、これは実現しなかった。

1990年代早々には、社内ベンチャー制度があり、これが記憶に残っていた。

この制度に基づけば、社員が事業案件を企画し、営業部が有望と認めた場合、営業部・個人の共同出資が認められていた。

ところが、この制度を活用しようと人事部に確認したところ、適用事例が1件もないまま廃止されたとの事であった。

金融物流部門(以下、出資部門)からは、「制度が無いので、水野の出資は無理だが、なるべく活動の自由を認めるので頑張れ」と言われ、わがままも言えず、納得した。

 

新会社の名称は、M&C にした。Management and Consultingの略である。

2拠点あるので、M&C South China(香港法人)とM&C Shanghai(上海法人)という名称とした。丸紅の商号を使用しなかったのは、広いクライアント層獲得のために、中立的な名称が望ましいと思ったためだ。

 

僕の人事に関しては、出資部門から話が出た時に、執行役員・経理部長に相談した。

転籍(経理の原籍から出資部門への切り替え)でも、経理に原籍を置いたままの社内出向でもよいと言われたが、会社設立の経緯を考え、転籍とする事で了解をもらった。

また、経理部の社員を1名、社内出向で僕の新会社に派遣する取り計らいもしてくれた。

最大限の温情に感謝の言葉もなかったが、縦割り意識が強い商社では、転籍は転職の様なものだ。もう経理部に頼る事はできない。

退路は断たれた。

社内で生き残るためには、事業を成功させるしかなく、今まで以上の覚悟が必要となった。

 

尚、会社設立の記事は、日経新聞、フジサンケイビジネスアイ、NNA等で報道された。

この中で、日経新聞の記事は、当時の広報部副部長の、取り計らいの賜物である。

僕はコンサルティング業務遂行に当たり、新聞社・通信社との接触・取材が多かったが、同副部長は、僕を信頼してくれ、自由に活動させてくれた。

M&C設立に際して、日経新聞上海支局長を紹介してくれ、「現場から記事にしてもらった方が、扱いが良くなるし、彼女は実力が有る。上海で彼女を訪ねて取材してもらえ。事前報告は不要。何か聞かれたら、水野の発言は、全て丸紅広報部の了解取得済みだと言い切っていい」と言ってくれた。

この副部長は、部長昇格直前に、体調を崩され若くして亡くなった。

訃報を受けた時、僕はすでに丸紅を退職していたが、強いショックを受けたものである。

丸紅に、恩人は多いが、その方は、確実に僕にとって、恩人の一人であり、尊敬するビジネスマンであった。

3.上海での事業立ち上げ準備

2006年1月の稟議承認を受けて、香港、上海でコンサルティング現法設立準備を開始した。

丸紅香港現法のコンサルティング部には、すでに6名の社員がおり、ビジネス基盤も有ったので、会社を作って形式を整えれば準備は完了する。

一方、上海では、人材採用、オフィス探し、提携先の開拓など、やる事が山の様にあったので、まずは、元丸紅上海の同僚に、顧問の形で手伝ってもらう事とした。

その上で、良い人材を紹介してもらった結果、立ち上がりは、日本人1名・中国人1名で、それに、兼任の僕と顧問の原田という、こじんまりした陣容となった。

丸紅上海が浦東に有るため、それまでの僕は、上海では、浦東での活動が中心であった。

ただ、浦東の日系企業は、主に金融、商社関係の会社であり、クライアント候補は浦西に集中している。

ビジネス獲得を目的とするのであれば浦西に限ると決めて、オフィス・住居の選定を開始した。

オフィスに付いては、サービスオフィスを含めて、何か所も回ったが、花園飯店(オークラホテル)の敷地内に、手頃な物件が有ったため、そこに決定した。

3人分のデスクを置くと、会議室も作れず、パーティションもない4人掛けのブースのみという小さな部屋だったが、収入を確保するまでは我慢しようと割り切った。

 

住居は、丸紅上海の総務部が紹介してくれた不動産会社に5,000~6,000元の物件を探してもらったが、全く出てこない。

極端に条件が悪い(場所が遠い・面積が小さい)物件を、8,000~9,000元程度の価格で紹介され、上海の家賃はこんなに高いのかと驚いた。

ところが、新規採用した中国人社員経由で探してみると、希望価格でもっと良い物件がたくさん出てきた。迷った末に、オフィス付近の老房子を6,500元で借りる事にした。

当時の丸紅上海の単身駐在者の家賃手当は16,000元だったので、仲介料が家賃に連動する関係上、出入りする仲介業者は、僕の提示価格では、まともな物件を紹介する気が無かったのであろう。

また、家賃限度をはるかに下回る物件を選んだ僕を、上海の駐在員は変人だと噂していたようだ。ただ、苦労して設立にこぎつけた会社であり、僕自身、形式はともあれ、実質的には僕の社内ベンチャー企業であると考えていたので、収入もないうちから、高い家賃を払う訳にはいかなかった。

 

因みに、この時契約した部屋は、築何十年が経過した、歴史的価値のある建造物であった。

部屋の作りは芸術的で、何とも風情が有ったが、使い勝手は悪かった。

天井が高く冷暖房はなかなか効かないし、3階の部屋で、水道水の水圧が弱い。

シャワーの湯がなかなか出なくて冬は苦労した。

 

「会社が儲かったら、良い部屋に住む」と宣言していた僕だったが、翌年には、逆に、3,500元程度の部屋に引っ越した。

売上は増えたが、収益ノルマ(予算)が厳しくなったためである。

その部屋は、内装はまあよかったが、部屋の外(廊下、エントランス等)が荒んでいて、部屋の中にいると、物悲しい気分になった。

部屋の窓にひびが入っていたし、冷暖房の効きも悪かった。

ある冬の朝、異常な寒さで目覚めると雪が降っていた事がある。

悪い事に、最悪のタイミングで暖房が故障し、窓のひびからは雪が部屋に舞い込んでいた。

吐く息は真っ白。大げさに言えば生命の危険を感じるほどの寒さだったので、布団から出る事ができず、部下に助けを求める電話をかけた。

今となっては懐かしい出来事であるが、当時は、何とも悲しかった。

 

4.上海での開業記念講演会

上海での会社設立、部下の採用し、オフィス設営が完了した段階で、開業記念講演会を開く事にした。2006年7月の事である。

コンサルティング業では、飛び込み営業は殆ど効果が無い。

これは、当時の部下(現日本所長の杉山を含む)が、1年間飛び込み営業を繰り返し、殆ど成果が上がらなかった事で証明されている。

コンサルティングの顧客獲得方法は、連載原稿、書籍、講演会などで提供する情報・ノウハウを、見る人、聞く人に評価して頂くのが、原則的な方法と言える。

その意味で、講演会は、営業の重要な柱である。

 

会場は、花園飯店(オークラホテル)のメインボールルーム。

当日は満員の聴講者の方に集まって頂いた。

無料講演会ではあったが、約300人に集まって頂いた事で、「上海でもやっていける」という自信を持った。

講演会から懇親会に繋げ、1日のプログラムが終了したのは夜9時頃。

順調に終わった1日に満足して、関係者だけで2次会に繰り出し、大騒ぎした。

幸福感に満ちた1日だった。

 

5.その後の推移と突然の事業撤退指示

2006年中盤に設立されたM&Cは、順調な滑り出しを見せ、顧問先を拡大していった。

初年度、2年目とも予算・稟議計数を達成し、2007年末には、顧問企業数は約200社となった。約1.5年で、顧問数を2倍にした訳なので、分社したのは成功だったと考えていた。

その一方で、頭の痛い問題も有った。

出資者と方向性の相違が生まれた事と、社内の人間関係である。

出資者との方向性の相違というのは、M&C設立翌年の部門全体会議で強烈な違和感として現れた。終日行われた会議では、朝から晩まで「持分利益を金で買え」という掛け声に満ちていた。つまり、一生懸命努力すれば利益は数割増えるかもしれないが、数倍にするのは至難の業だ。なら、マイナー出資でも良いので、利益の出る会社を買収して、持分利益を取り込め。金ならいくらでも借りられるという掛け声が、終日交わされていたのである。

この方針には、全く賛同できなかった。

ある会社にマイナー出資してもコントロールは利かず、リスクを抱え込むだけである。安易に買収で利益を出そうという発想は、自分としては受け入れ難く、その指示には従えなかった。

また、2001年の、丸紅の格付け引き下げに際して、金が借りられないという社内の危機感が、僕のコンサルティングビジネスを後押しした感が有るが、業績のV字回復により、自分のモデルが、少なくとも出資部門からは歓迎されない事を認識せざるを得なかった。

次に、社内の人間関係だ。

稟議計画を達成するためには、短期間で、コンサルティング人員を拡充する必要が有り、即戦力になる人材を、高給で迎え入れた。それ自体は、やむを得ない事だが、それが原因で、社員間の待遇の公平性が損なわれ、人間関係が劣悪になった。これは、間違いなく、僕の人事政策の失敗であった。

 

その様な問題を抱えつつ、年々上がっていく予算ノルマを達成するために、歯を食いしばってビジネスを獲得し、1年目、2年目の目標をクリアした。

そして、第3年目の予算達成に向けて何をしようか、と考えていた2008年2月早々、出資元の部長より、緊急の日本出張要請を受けた。

理由を聞くと、出資部門はコンサルティング事業撤退を決定したので、詳細を話したいというのである。

6.退職の決意

コンサルティング事業撤退の決定の理由は、詳細は省くが、部門長交代による方針変更、出資部門の業績低迷による法人数削減、その他の要因が重なったものであるが、1年弱前の全体会議の時に感じた違和感が、現実になったという事である。

 

年内にM&Cを清算して、僕だけ帰ってこいという指示に対して、帰国は受け入れるにしても、以下の希望を提示した。

① 既存顧客(クライアント)に迷惑はかけられない。

新規顧客は取らなくてもよいので、既存顧客に対する情報提供・Q&Aサービスは継続

して欲しい。

② 部下の雇用を守って欲しい。

僕の人件費がなくなれば、既存の顧問料だけで部下の経費が十分賄える。M&Cの解散

が避けられないのであれば、丸紅上海、丸紅香港で契約と部下を引き取ってほしい。

 

但し、上記は簡単に却下され、200社の顧問契約は全て解約。部下も解雇という線は譲れないとの言われたため、僕は大いに悩んだ。

 

出資部門の方針を受け入れる事は、クライアントと部下を裏切る事を意味する。

コンサルティング契約に際して、「水野さんは駐在員だから、何時か帰国してコンサルティングが継続できなくなるのでは」と質問される事がよくあった。

それに対して、「僕は責任を持ってコンサルティングに取り組んでいます」と回答して契約を頂いていた。

また、部下も僕の事を信頼し、付いてきてくれている。

辞令が出たからといって、契約を切り、部下を全員解雇して本社に帰国してしまえば、今後、誰も僕を信用してくれなくなる。

何より、自分自身が許せない。

 

出資部門のコンサルティング撤退方針が出た以上、丸紅を辞めなければいけない事は、頭の中では分っていた。

分ってはいたが、独立起業が成功する保証はない。

家族を抱えた45歳の人間として、安定収入を捨てるのは怖かった。

それからしばらくは、毎日、「辞めなければいけない」と自分に言い続けた。

腹をくくるには、努力が必要だったからである。

 

それからしばらくして、2008年4月に就任した中国総代表が、出張で上海を訪問した。

丸紅上海の管理部門より連絡が有り、「新総代表が、上海で水野に会いたいと言っている」と言われた。

その時点で、僕と総代表は面識が無く、要件が何か、全く想像もつかなかった。

総代表のスケジュールは分刻みで、空いている時間は、滞在二日目の朝8時しかないという事なので、朝早タクシーをつかまえ、総代表が宿泊するホテルに向かった。

その際、僕は、ホテルを間違えるという失敗を犯してしまう。

勘違いに気付いた時は7時半で、直ぐタクシーを方向転換させたものの、大渋滞に巻き込まれて、車はピクリとも動かない。

結局、1時間近い大遅刻でホテルに到着したのだが、総代表は、その後のスケジュールを調整して、僕を待っていてくれた。

僕が悩んでいる事を聞いて、心配してくれていたとの事である。

「丸紅を辞める事になると思います」と言う僕に対して、「覚悟を決めた目をしているね。俺も会社辞めた事が有るけど、決めるまでが一番辛い。水野が独立しても、丸紅として一緒に仕事ができて、それでお互い、今までより良い仕事ができればいいね」と優しい言葉を掛けてくれた。

その気遣いに、僕は胸がいっぱいになり、そして、気持の整理がついた。

本当の意味で、丸紅を辞める覚悟ができたのは、この時だったと言えるだろう。

 

丸紅を辞める覚悟はしたが、できれば、M&Cを売ってほしかった。

0から会社を立ち上げるのは大変だし、何よりM&Cは、僕が育てた、思いが詰まった会社である。出資部門としてコンサルティング事業継続の意思が無く、また、コンサルティングノウハウが有る社員がいないのであれば、僕が会社を買い取る事(MBO)が、お互いにとって、一番の選択肢だと考えた。

計算上は、US$ 45万あれば、会社が買える筈であった。

悩みに悩んで相談した、NAC Global Ltdの中小田代表が、US$ 30万までなら出しましょうと言ってくれ、資金繰りの目途がついた。

それを踏まえて、出資部門と交渉を重ねたのだが、MBO(Management Buy Out)は却下され、0からのスタートを余儀なくされた。

やはり、社内ベンチャーの制度が廃止されていたのは、痛恨の極みであった。

 

部下には迷惑を掛けられない。厳しい資金繰りの中で「手を挙げてくれれば、全員、同じ給与で引き取る」とコミットしたが、付いてきてくれたのは、胡(現在上海総経理)、杉山(現在日本所長)、麦(現在広州総経理)、水嶋(現在香港秘書)、あとは、顧問原田という5名だけであった。

特に、胡・杉山の両君は、出資部門に、「君たちはどうする」と聞かれた時、即座に、「水野にコンサルティングを教えてもらったので、当然、水野に付いていきます」と言い切ってくれた。その潔さには、僕自身驚き、感謝した。

 

丸紅最終日は、8月29日(金)であった。

場所は上海。

M&C上海の社長代理として赴任する事になった駐在員が、僕の行きつけのシャンパンバーに招待してくれた。

記念写真を撮ろうと、できる限りさわやかな顔をしたのであるが、後で見ると、笑顔が弱弱しい。不安に押しつぶされそうな気持が表れている。

 

7.退職までの1ヶ月ちょっと

辞表を提出し、退職するまでの1ヶ月は、丸紅に対する未練と、将来に対する不安でいっぱいだった。その中で、送別会・壮行会も、連日開かれた。

忘れられない思い出は、シグナル8、シグナル9の日に開いてくれた、同僚の送別会である。

8月初旬に、丸紅のOBが送別会を開いてくれる事になったが、あいにくシグナル8になり、開催が危ぶまれた。

ただ、OBは何とか空いている店を見つけ、会食を開始した段階では、シグナル8が解除されたので、2次会にも繰り出す事になった。

次の、8月下旬の、シグナル9の台風はひどかった。

さすがにどこもやっていないであろうと思い、打ち切りを想定して、同僚(先輩)に電話をしたが、同氏は50件以上も電話して、執念で営業している日本料理屋を見つけた。

シェラトンホテル内の日本料理である。

食事後、隣のペニンシュラホテルのラウンジバーに移動して酒を飲んだ。

あまりにひどい風なので、正面のエントランスは防風器具でおおわれており、裏口から中に入った。

ペニンシュラホテルの1階に、客は僕達二人だけ。まさに貸し切り状態だ。

これほど贅沢な状態は、ちょっと考えられない。

時折、館内にも響いてくる、ゴーッというすごい風の音を聞きながら、数日後に迫った独立起業の不安と闘っていた。

飲み終わると、先輩はタクシーを呼んでもらい帰ったが、僕は、資金的な不安を抱えていたので、地下鉄で香港島まで帰った。

シグナル8以上になると、タクシーも保険が適用されないので、交渉で価格を決める事になる。台風の中でも地下鉄が動いていたのが幸いだった。

 

そんな感じの嵐の中の送別会。

接待にかける商社マンの執念を見た思いがしたが、そこまでして僕の送別会をしてくれた同僚に感謝した。

 

また、丸紅香港の香港人スタッフも送別会を開いてくれた。

最年長者の、「水野はいつも穏やかだから、大好きだったよ」という言葉に感激した。

 


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